慶応2年(1866)1月2日仙台市に生まれ、幼い頃から父にアルファベットを習い、5歳の時、仙台市辛未館に入学した。
明治7年(1874)11月、 8歳の時、 宮城外国語学校で語学を学んだ。入学した宮城外国語学校は宮城英語学校と名称を替え、この種の英語学校は文部省令で当時7校つくられていた。宮城英語学校、新潟英語学校、東京英語学校、愛知英語学校、大阪英語学校、広島英語学校、長崎英語学校である。東京英語学校には高田早苗(教育者・早稲田大学総長)、 新潟英語学校には粟野健次郎(旧制第二高等学校名誉教授)と 吉田東伍(歴史地理学者)、 愛知英語学校には坪内逍遥(小説家・劇作家)や二葉亭四迷(小説家・ロシア文学翻訳者)などが教鞭をとっていた。
明治12年(1879)7月、仙台中学校(宮城英語学校)を卒業し、 東京大学予備門を経て東京工部大学(現在の東京大学工学部の前身)に通うかたわら、東京帝国大学英文学教授であったJamce Main Dixon(1857~1933)に師事し英語および英文学を学んだ。 20歳の時、仙台英語学校を創立し、第1回生のなかに「荒城の月」の作詞者・土井晩翠(1871~1952)がおり、土井晩翠が著した「晩翠放談」に次のように記されている。「私が同塾に入って初めて先生の偉大な風貌-身のたけ六尺余-に接したのは16、7の頃である。先生は授業の余暇にバイロンの詩を愛誦して私に聞かせてくだされた」
明治21年(1888)に第二高等学校で助教授として教鞭を執ることになり、その頃在学していたと思われる生徒の中に、井上準之助(政治家・日銀総裁)、高山樗牛(評論家・雑誌「太陽」主宰)などの名がある。
明治29年(1896)10月、 弱冠30歳で正則学園の前身である正則英語学校(S.E.G)を誕生させた。 また当時第一高等学校(現在の東京大学)の教授でもあった。
明治30年(1897)4月ごろ、齋藤秀三郎先生は第一高等学校の職を辞し、正則英語学校一本に専心しはじめた。
明治32年4月には、生徒数3000人を数えるほどに増え、同種学校の羨望の的になるほどだった。講師陣も英語、英文学界のそうそうたるメンバーが揃っていた。齋藤秀三郎先生をはじめとして片腕として、活躍した村田祐治先生(第一高等学校、学習院大学教授、のち正則英語学校2代目校長、正則商業初代校長)、新進文学士連と呼ばれた戸沢正明、戸川秋骨(英文学者、評論家、慶応大学教授)、上田敏(翻訳家、詩人)、平田禿木(英文学者、随筆家)、朝永三十郎(哲学者)、池田夏苗(味の素発明者池田博士の弟)や、青山学院の和田正幾、学習院教授の飯塚陽平、国民英学会卒業の渡辺秋造、仙台英語学校時代の佐々城粛、帷子一也、田沢幹男およびその一門といった具合だった。これら講師陣の熱心で個性的な教育指導により、ますます正則英語学校の評判は高まっていった。
明治35年(1902)10月5日、正則英語学校に正則予備学校を併設、 さらに明治39年10月に小川町分校を、翌40年8月には芝分校を設けていく。またさまざまな人物が正則に通っていた。昭和31年(1956)誕生した石橋湛山内閣。日中貿易を正面に揚げて市場の開拓を図るとともに、国内の軍需生産の本格化を図る政策で新生面を開こうとした。病気のためわずか2ヶ月の短命に終わり、同じく自由民主党の岸信介の手に政権をゆだねることになったため、 その政策は実現しなかった。 その石橋湛山元首相も卒業生である。 英語学の大家で東京大学名誉教授であった市川三喜博士、戦後、内閣憲法調査会長として、日本国憲法の改正問題に取り組んだ英米法の権威で憲法学者であった高柳賢三博士、 社会運動家の平塚雷鳥、 「一握の砂」「悲しき玩具」などで有名な歌人・石川啄木、 詩人・作詞家の西条八十、 歌集「赤光」「あらたま」で知られ、アララギ派の中心人物であった斎藤茂吉、「女の一生」「真実一路」「路傍の石」など名作を著した山本有三、「赤ひげ診療譚」「青べか物語」「樅の木は残った」で知られる小説家・山本周五郎、 「癩」 「生活の探求」で知られる作家・島木健作、元海軍大将で台湾総督の長谷川清、元三井不動産の社長の江戸英雄など多くの文化人を輩出している。
昭和4年(1929)11月9日逝去。享年64才。
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